- 当山は宝徳年間頃、麟巌和尚(1489寂)が創建し、始めは東川寺と称していたらしい。 のち寛永年間に加納城主菩提寺・全久院(現在豊橋)第11世鉄心道印和尚の弟子で水岸本滴和尚という僧が播州から美濃の国下有知の竜泰寺へ赴く道すがらこの地を通りかかって民家に宿を借りた。
その時の主人が告げるに「当地の土仏の沢の中に毒竜が住んでいて人々に害を加えるので、どうか和尚の御徳によって、この害難を除いて下さい」和尚は翌日沢の辺に至って七日の間黙坐して法を説いた。
恐ろしい毒竜も遂に屈し、姿を現して仏道に帰依し、懺悔して仏戒を受けて竜身を解脱したという。 それ以来毒竜の害が無くなったので、人々は和尚の徳を慕い、麟巌和尚の建てた寺の地を献じて伽藍を建立し、和尚を請して開山とした。
この時に山号を龍徳山とし寺を洞泉寺と改めた。 慶安元年(1648)のことであった。
その後第十五世祖雲越宗大和尚の時に至り、文政五年(1822)失火により伽藍を全て焼失してしまった。 その時には住職は不在であったので、本尊釈迦如来像他数体の仏像と過去帳を取り出しただけであった。
同年三月十五日芥見村大退の薬王寺十四世完翁曹全和尚が、村民に請われて当山の住職となり再建にあたることとなり、直ちに庫裡の再建に着手し、六月十五日落慶、十一月三日には入佛供養を兼ねて晋山式を行った。
続いて十方に勧化して浄財を集め、文政八年(1825)三月の始めに立柱式、九月に上棟式。その後十二年を経て、天保七年(1836)八月十四日大風のため本堂が大破。
またまた再々建に着手し天保十二年(1841)四月二日に建て始め、同年秋落成したので、弘化元年(1844)十月二十六日に至って、ようやく入佛供養を厳修した。
鐘楼門は嘉永六年(1853)に完成。庫裡は文政五年に十六世和尚が建てた後、明治31年に二十一世法山鐵眼和尚が建て替えている。 後住の二十二世帰法銖一和尚は若くして遷化したので、二十一世和尚の弟子で土岐市鶴里村福昌寺(現在の正福寺)住職であった鐵山石牛和尚が急遽後任となり、銖一和尚の弟であった石城和尚を連れて入山することになった。
法燈の危機であった。 やがて戦争の時代になり、鐘楼堂の鐘を供出、蝋燭立てをはじめ金属製品は軍用に供出することとなった。 天皇崇拝、軍国主義の世の中で、当本堂にも軍人が何人か逗留していたようだ。
敗戦後、失った鐘を鋳造し直そうという気運が高まり、昭和25年3月31日新しい鐘が迎えられ鐘供養の式典が厳修された。 大勢の稚児行列、散餅。戦後の復興と平和を祈る鐘であった。
- 本 尊 釈迦牟尼佛
草 創 宝徳年間(1460頃)
草創開山 麟巌祥大和尚
延徳2年(1489)6月14日寂
開 創 慶安元年(1648)
開 山 水岸本滴大和尚
貞享2年(1685)11月3日寂 73歳
本 寺 全久院 (愛知第2-813番)